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November 10, 2017

浅井忠と明治美術学校


 朝晩めっきり冷え込むようになってまいりました。小石川後楽園の紅葉は例年11月中旬からが見ごろ、そろそろですね。
 さて今回は、今年没後110年を迎えた日本洋画の開拓者、浅井忠(1856~1907)と、かつて小石川にあり浅井が関わった明治美術学校について記します。

 浅井忠、幼名忠之丞は、1856年(安政3年)江戸木挽町の佐倉藩中屋敷に佐倉藩重臣伊織常明の長男として誕生しました。父の死によりわずか7歳にして家督を相続し、佐倉に移住します。

佐倉城址の子規句碑.jpg
佐倉城址には浅井忠の友人、正岡子規の句碑がありました。
「常盤木や冬されまさる城の跡」



 10年を佐倉で過ごした後再び上京し、1876年(明治9年)、20歳にして国沢新九郎の画塾彰技堂で初めて洋画を学びました。同年工部省により開校されたばかりの工部美術学校に入学し、バルビゾン派の流れを汲むイタリア人画家アントニオ・フォンタネージの指導を受けました。しかし敬愛するフォンタネージはわずか2年後の明治11年に辞任・帰国してしまい、後任の教授に不満を抱いた浅井や小山正太郎、松岡寿ら多くの学生は自主退学を選び、十一会を結成しました。その影響もあってか、工部大学校は5年後に閉鎖されます。

 その後1887年(明治20年)、文部省により東京美術学校(東京藝術大学の前身)が開校されますが、設置された学科は日本画、木彫、彫金のみで洋画は意図的に排除されました。反発した浅井ら洋画家は、1889年(明治22年)明治美術会を設立し独自に洋画の普及、発展を目指します。明治美術学校(当初は「明治美術会教場」)は同会が設けた洋画教育機関です。

 1890年(明治23年)頃は京橋区内にあり、翌1891年(明治24年)の春上野公園内の華族会館に事務所を構えた明治美術会ですが、財政難から同年本郷龍岡町に移転、更に翌1892年(明治25年)に小石川伝通院の裏手にあった「鼠色に塗られた木造の洋館」へ移ります。移転先の「小石川表町109番地(文京区小石川3丁目)」は、元陸軍省用地の荒地を切り開いて新たに道を通した場所で、現在「舞姫通り」と呼ばれている小路沿いの住宅街一帯にあたります。明治美術会事務所があった正確な位置は、残念ながら分かりませんでした。浅井は当時自宅のあった下谷根岸から、馬で通っていたそうです。(余談ですが、舞姫通りの北西側の端からさらに200メートルほど進むと当社裏門に至ります。)

小石川伝通院界隈.jpg
小石川伝通院界隈


舞姫通り.jpg
舞姫通り 通りの両端にバレエやダンスのスクールがあります。


 小石川移転2年後の1894年(明治27年)、明治美術会はアトリエ機能の強化などを目的に建物を改築し、これまでの教場を明治美術学校と改称しました。設計は東京駅設計者として広く知られる帝大教授の辰野金吾。辰野はまた明治美術学校の校長に就任します。浅井は風景画の主任を務めました。弟子の石井柏亭によると当時の小石川は「家がまだまばらで画になる材料があった」ので、「時には教場の近くで風景写生をする生徒達を浅井が批評したり」する姿が見られたそうです。近隣で生まれ育った小説家永井荷風は、少年時代にそうした浅井を目撃していたのでしょう。小石川について記した随筆のなかで浅井に触れています。

 その後の明治美術会ですが、1896年(明治29年)、黒田清輝、久米桂一郎、岩村透ら海外留学組を中心とするメンバーが退会し白馬会を創設、また同時期に東京美術学校に洋画科が新設され、黒田、久米が教授に就任しました。白馬会は「新派」あるいは「外光派」、明治美術会が「旧派」あるいは「脂(やに)派」と呼ばれる風潮となり、浅井ら明治美術会には逆風が吹きます。翌1897年(明治30年)明治美術学校は閉鎖され、その4年後明治美術会も解散しました。

 浅井は明治美術学校閉鎖後、下谷上根岸町の自宅(現在の鶯谷駅前、元三島神社附近)に家塾「根岸倶楽部」を置き、後身の指導育成にあたりました。1898年(明治31年)の東京美術学校騒動後、ようやく美術学校洋画科に白馬会以外の教授を置くこととなり、明治美術会に推されて浅井が教授に就任します。翌年、パリ万博の鑑査官としてまた文部省の命による留学のためフランスへ渡り1902年(明治35年)まで2年余り滞在します。バルビゾンにほど近いグレー村を気に入り、油絵のほか多くの水彩画を制作しました。
 東京の美術界に嫌気がさした浅井は、帰国後京都に転居し京都高等工芸学校教授に就任。翌1903年(明治36年)には聖護院洋画研究所、後の関西美術院を設立し、後身の育成に注力しました。巨匠、梅原龍三郎や安井曾太郎はここで直接浅井の指導を受けた生徒のひとりです。また向井潤吉は、浅井の没後ですが関西美術院で洋画の基礎を学びました。

 文豪夏目漱石と浅井は、共通の友人正岡子規の紹介で知り合ったと思われますが、浅井が漱石の処女小説『吾輩は猫である』の挿画を描くなど深い親交がありました。浅井が1907年(明治40年)に亡くなり、翌年明治美術会の後身たる太平洋画会の第6回展で回顧展が併催されると、漱石は小説『三四郎』のなかで「深見画伯」の遺作展に仮託し、この浅井の回顧展を描きました。亡き友に寄せた漱石の想いが伝わってきます。

 浅井忠は、51年の生涯を通し洋画を志す若者たちの育成に力を注ぎ、近代洋画壇の礎を築きました。また小石川の地が、彼の活動を支える一端を担いました。最後に、『三四郎』のなかから、浅井の作品について語った言葉をご紹介します。画家原口(黒田清輝がモデルと言われます)が美彌子と三四郎に語った言葉です。

 「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」




【参考】 明治美術会略史 (石井柏亭『浅井忠 画集及評伝』他をもとに編纂)


1889年 明治22年
2月下旬、本多錦吉郎、小山正太郎、柳源吉、浅井忠、松岡寿、松井昇、長沼守敬らの発意協議により明治美術会の仮規則草案作成される。
4月9日、相談会開催され山本芳翠、渡辺文三郎、佐々木三六ら賛同。当日出席できなかった曽山幸彦、川村清雄も賛同。
4月19日、第三回美術家親睦会(根岸「伊香保」にて)でより広い範囲に会則が示されるが依存なし。
5月、明治美術会創立される。会頭に渡辺洪基(帝大総長)就任。春秋2季に展覧会開催を定める。展覧会のための学術委員15名、事務委員20名を互選。浅井は双方に選ばれたが学術委員は辞退。第一回展の会場は上野不忍池畔にあった共同競馬会社の馬見所、会期は10月20日から29日に決定。(開会後11月3日まで延長、11月4日には明治天皇の皇后、昭憲皇太后が行啓)浅井は「馬蹄香」、「春畝」(東京国立博物館)、「山驛」の3点を出品。
12月、明治美術会第1回大会開催。


1890年 明治23年
この頃、京橋区内に事務所を構えていた。(明治23年4月付有志者親睦会案内書面、同年10月11日付月例会案内書面)
4~7月、第3回内国勧業博覧会を上野で開催。明治美術会は春季展を見合わせ内国勧業博覧会に出品を決定。浅井、小山、松井、川村らは出品せず。明治美術会から小山、松岡、長沼らが油画の審査官に加わる。
4月27日、明治美術会第2回大会開催され文学博士外山正一が講演し物議をかもす。
9月3日、華族会館が鹿鳴館に移転。跡地は学習院分校となる。
9月、渡辺会頭が特命全権公使に任ぜられ、田中不二麿が新たな会頭に就任。
11月、第二回明治美術会展覧会開催(上野公園旧華族会館)され、皇后(昭憲皇太后)、皇太后(公明天皇の女御、英照皇太后)、皇太子(大正天皇)行啓。浅井は「漁村」二図、「漁磯」、「収穫」(東京藝術大学蔵)の4点出品。


1891年 明治24年
明治美術会、4月より旧華族会館を永続的使用することとなる。旧華族会館に事務所を置き展覧会や月次会を行い7月から常設の陳列館を開く。
11月、地代による負債が嵩み、旧華族会館の事務所を閉鎖、本郷龍岡町へ移転。


1892年 明治25年
1月、明治美術会事務所に仮教場(絵画科、三学年)を開設。教授内容は、一学年~二学年前期は幾何画法と鉛筆、チョークによる臨画、二学年後期から三学年にかけては素描と着色の写生、透視画法(当時は「照鏡画法」と呼んだ)と解剖。彫刻科も計画されたが実現に至らず。絵画科教授は浅井のほか本多錦吉郎、加地為也、柳源吉、松井昇、松岡寿、平瀬作五郎(幾何学画法、透視画法)の計7名。
同月、明治美術会月次会開催され、本多が提議の「裸体画ノ絵画彫刻ハ本邦ノ風俗ニ害アリヤ否ヤ」を討議。浅井は時期尚早論を展開。
3~5月、第4回明治美術会展が芝公園弥生館にて開催される。浅井は水彩画1枚を出品するのみ。この頃浅井は、従兄弟の窪田洋平が計画した神田の「パノラマ」(「忠臣蔵」のジオラマと「富士」のパノラマ/明治23年暮れから製作開始し24年4月に開館、25年4月の神田大火で焼失)製作に時間を費やしていたため出品画が少ないとされる。浅井ら明治美術会の主だった画家が製作に従事した。
5月11日から6月30日まで第3回明治美術会展覧会開催。浅井は出品せず。また秋季展は開催されず。
6月、会事務所・教場を小石川表町109番地(伝通院裏の元陸軍省用地)にあった「鼠色」の木造洋館に移転。北畠大学建設用地となっていたところを建物ごと会が入手。浅井は根岸の自宅からよく馬で教場を訪れた。


1893年 明治26年
明治美術会、米国コロンブス世界博覧会への出品を取りやめる。
4月、第5回明治美術会展覧会開催(上野公園元博覧会5号館)。田中会頭が辞任し花房義質が就任。


1894年 明治27年
明治美術会事務所を改築(設計辰野金吾)。教場を明治美術学校と改称し、辰野金吾(建築家、帝大教授)を校長とする。(「辰野の設計によって北窓を改造したりしたのでそれは漸くアトリエらしいものになつた。廣い室の一つが人物寫生に充てられ、より小さいのが石膏寫生や臨模に充てられ、尚其外に事務室會議室もあつた。」石井柏亭『浅井忠 画集及評伝』より)浅井は風景の主任、松岡が人物の主任で、松井や本多はあまり実技指導を行わなかった。表町周辺はまだ家がまばらで画になる材料があり、教場の近くで浅井指導による風景写生が行われた。
夏、日清戦争勃発し浅井、時事新報の通信員の名目で従軍画家として戦地に赴く。
11月11日から末日まで第6回明治美術会展覧会開催される。浅井は出品せず。この年帰国した黒田清輝、「朝粧」を初めて出品。


1895年 明治28年
4~7月、京都で第4回内国勧業博覧会開催され黒田清輝「朝粧」を出品し物議をかもす。浅井は「旅順戦後の捜索」(東京国立博物館)を出品、二等妙技賞受賞。
10、11月明治美術会秋季展開催。浅井、「旅順戦後の捜索」、「樋口大尉小児を扶くる図」(油画)ほかに水彩画9点を出品。
浅井、明治29年頃まで教科書出版に注力。(金港堂『中学画手本』、吉川書店 中等教育『彩画初歩』、金港堂『新按小学画手本』など)


1896年 明治29年
6月、黒田清輝、久米桂一郎、岩村透ら明治美術会を退会し白馬会を創設。
東京美術学校に洋画科新設され黒田、久米講師となる。この頃から白馬会を新派、明治美術会を旧派と呼ぶ風潮興る。
明治美術会秋季展開催されず。
7月、浅井、元三島神社前の下谷上根岸町38番地に転居。


1897年 明治30年
4~5月明治美術会展覧会開催。浅井「漁婦」、「海上の春雨」、「房州根本村の景」2図、計4点出品。
明治美術学校閉鎖。浅井、自宅隣に家塾「根岸倶楽部(後の同友会研究所)」を置き後進を指導。


1898年 明治31年
3月、明治美術会創立10年記念展覧会開催。浅井「冬枯」を出品。
東京美術学校騒動の後、洋画科に白馬会以外の教授を置くことが議論され、明治美術会の推薦で浅井が教授となる。


1899年 明治32年
浅井、内閣よりパリ万博鑑査官に任命される。また文部省よりフランス留学を命ぜられる。


1900年 明治33年
2月、浅井、渡欧。(~1902年)


1901年 明治34年
11月、明治美術会解散。翌年、吉田博ら後身の太平洋画会結成。

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