« 注目、フェルメール展。 | メイン | 【新商品紹介】フェルメール《牛乳を注ぐ女 THE MILKMAID》 »

August 24, 2018

晩年の北斎とその娘応為のこと


 2020年開催の東京オリンピック開催を控え江戸文化へ関心が集まり、それに伴い浮世絵の人気も確実に高まってきているようだ。私が立ち寄る都内の浮世絵専門美術館も確実に来館者が増加している印象だが、特徴的なのは海外の方々が増えことに若い世代の姿が目立つことであろう。いずれも作家や作品に敬意を払い真剣なまなざしで鑑賞している姿は好ましく、日本人のひとりとして誇らしくも感じる。

 私自身、2016年秋にすみだ北斎美術館が東京両国に開館して以来、浮世絵を鑑賞する機会が増えたように思う。昨今日本美術の代表格のようにもてはやされる浮世絵だが、専門の美術館は意外に少なく1972年開館の平木浮世絵美術館(旧リッカー美術館、2013年閉館)を嚆矢とし、東京原宿の太田記念美術館や長野県松本の日本浮世博物館、同じく長野県小布施町の北斎館などが広く知られている。

南割下水跡(北斎通り).JPG
すみだ北斎美術館の前を通る「北斎通り」は江戸時代の南割下水の跡である。この付近で北斎は生まれた。

すみだ北斎美術館.JPG
すみだ北斎美術館

 北斎生誕の地に建つすみだ北斎美術館は、浮世絵専門の美術館としては最も新しい。初めての来館された方は、ほぼ全面を鏡面アルミパネルに覆われた斬新な建築にまず驚かされるだろう。これは「建築界のノーベル賞」とも言われるプリツカー賞を受賞し、国際的に活躍する建築家ユニットSANNAの妹島和世氏の設計によるものだ。肝心の展示については、常設展示にいわゆるタブレット端末を活用し北斎アトリエを等身大で再現するなど、観る者を楽しませる様々な工夫がこらされている。また年6回の企画展は常に斬新な切り口のテーマを提示し、リピーターを飽きさせない。

 浮世絵は19世紀の西欧に驚きを持って迎えられ、彼の地の芸術に多大の影響を与えたが、なかでも葛飾北斎(1760-1849)が最大の衝撃であったことは疑い得ない。かつて米国のライフ誌が「紀元2000年までの1000年間で最も偉大な芸術家100人」の一人に唯一の日本人として北斎を選び、また来年切り替わる新パスポートのデザインに「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が採用されたように、北斎は名実ともに我が国を代表する芸術家と言えよう。

 昨年はロンドン、大阪、東京の三都市で北斎関連の大規模展覧会が開催され、いづれも稀に見る盛況を博した。ロンドンの大英博物館で開催された特別展「北斎-大波の彼方へ」は、連日行列が出来るほどの人気だったそうだ。改めて内外に北斎の存在感を強く印象付けた感がある。来年2019年は没後170年、再来年2020年は生誕260年の記念イヤーに当たり、新たな展覧会も予定されているとの情報もある。

 こうした国内外の北斎ブームに伴い、晩年の北斎を支えた娘の応為(三女・阿栄 / 生没年不詳)も国際的注目を浴びている。応為は父北斎に画技を学んで「名手」の評判高く、北斎自身も美人画は自分を上回ると認めるほど優れた技量の持ち主だった。応為は商家や旗本の娘らを門人をとり画技を教えていたが、北斎の彩色を手伝ったり時には代作することもあったと考えられている。確認されている作品は極めて少ないが、繊細で緻密な筆致と立体的陰影を表わす美しい賦彩に特徴があり、北斎を通じて西洋絵画の描法を学んだと考えられる。代表作は太田記念美術館が所蔵する《吉原格子先之図》で浮世絵ファン必見の名作である。未見の方は是非一度ご覧いただき応為の魅力に触れていただきたい。

 応為は、一度北斎門人の南沢等明に嫁したがわずか数年で出戻り、以後父が亡くなるまで起居を共にしその創作活動を傍らで支えた。父譲りの男勝りの性格だったと伝えるが、母ことは応為が出戻って間もなく亡くなったから、女手を無くした老年の父への娘らしい気遣いもあったのだろう。

 応為が出戻った5年ほど後の天保3年(1832)からいわゆる天保の大飢饉が始まり、天保10年(1839)頃まで続く。江戸も例外ではなく、天保7年(1836)頃には市中に餓死者が多数横たわる惨状であったから、浮世絵どころではなく北斎の仕事も激減した。北斎は一計を案じ、紙を手当たり次第に集めて肉筆画を描き、画帖にして市中の画草紙屋で販売したところ有名な北斎の肉筆画ということで買う者が現れ、ようやく餓死を免れたという。北斎は、絵本『冨嶽百景』の初編を刊行した天保5年(1834)75歳に画号を「画狂老人卍」に改めるとともに、肉筆画の制作に傾注していった。なにかと制約の多い浮世絵に限界を感じより自由な創作の場を求めたと言われるが、上記のように切実な事情もあったのだろう。

駒形橋.JPG
本所達磨横町は隅田川に掛る駒形橋の東岸附近にあった。当時橋は無く「駒形の渡し(竹町の渡しとも)」があった。

 大飢饉が終焉する天保10年(1839)、北斎80歳の時、北斎父娘は本所達磨横町で火事に遭遇し、書き溜めた貴重な縮図や画材を含む全財産を失ってしまった。江戸は火事が頻発することで有名で、江戸市民は火事に遭わずに一生を終えられることは稀だったが、この時まで北斎は火事に遭遇することがなく、人の求めに応じ鎮火の守札を書き与えたこともあったというから、北斎もこの災厄は相当なショックであったろう。失った画材の代わりに徳利を打ち割ってその破片を筆洗や絵の具皿にして絵を描いたと伝える。

 天保12年(1841)、老中水野忠邦による悪名高い天保改革が始まると、綱紀粛正と奢侈禁止は庶民生活にも及び、翌天保13年から浮世絵を含む出版も厳しい統制を受けることとなった。6月に出された最初の出版統制令は、歌舞伎役者、遊女、芸者等の一枚摺錦絵を禁止し、北斎と親しい戯作者柳亭種彦(旗本・高屋彦四郎知久)の人気作品『偽紫田舎源氏』や為永春水の人情本などが発禁処分となり、関係者多数が処分された。続いて11月には出版物の名主検定制度が導入され、錦絵の彩色は七、八度摺りまで、三枚続きを超えるものが禁止された。天保改革による統制は、翌年9月に水野が失脚すると徐々に緩み始めるが、影響はしばらく続いた。

国芳「源頼光公館土蜘作妖怪図」460dpi.jpg
一勇斎国芳《源頼光公館土蜘作妖怪図》(国立国会図書館蔵)

 江戸の民衆は天保改革を憎んだ。それを裏付ける逸話のひとつとして一勇斎国芳が描いた錦絵を廻る話がある。天保14年に出版された国芳の《源頼光公館土蜘作妖怪図》は三枚続きの錦絵で、古くは平家物語に記され、能や歌舞伎の演目ともなった源頼光の土蜘蛛退治を画いたものである。頼光とその四天王が憩うその背景の暗闇の中で、妖怪の合戦が行われるという猟奇的な図柄である。転寝する頼光は今まさに背後から土蜘蛛に襲われようとしている。この版画が発売されるや、天保改革を皮肉った「判じ絵」と評判になりさっそく様々な解釈がなされた。いわく頼光は将軍徳川家慶、その前に坐す四天王の一人卜部季武は沢瀉の家紋から老中筆頭の水野忠邦とされ、他の四天王も真田、堀田、土井ら改革に携わった老中に擬せられた。版画が直ちに発禁処分となったことは言うまでもない。その後水野が失脚すると、暴徒化した江戸市民により屋敷が襲撃される騒ぎも起きている。

葛飾北斎「日新除魔」天保14年12月25日.jpg
葛飾北斎《日新除魔》より天保14年12月25日の部分

 丁度この時期、天保13年(1842)11月頃から翌14年(1843)12月まで、北斎は「日新除魔」と称して魔を祓う唐獅子の絵を毎日描いた(現在九州国立博物館が所蔵する重要文化財《日新除魔図》はその一部)。また、85歳から86歳にかけての天保15年(1844)、弘化2年(1845)には信州小布施の豪商高井鴻山の招きに応じて応為とともに小布施に滞在し祭屋台天井画を描いたが、鴻山を通じて松代藩家老の小山田氏と知己になり、その依頼で着彩画の《日新除魔》を描いた。「日新除魔」を描いた理由については、度々北斎を苦しめた孫の放蕩という魔を祓いためだとか、長寿を願ってなどと説明されているが、両説ともなぜこの時期に限って描いたのか十分な説明ができない。ひとつの仮説だが、北斎親子を含む庶民を苦しめる天保改革という魔を除くことを願い、除魔図を描き続けたのではなかったろうか。

 「画狂老人卍筆齢八十五歳」(天保15年)」の款記を有するボストン美術館の《唐獅子図》袱紗は、いわば「日新除魔」の集大成とも言うべき作品である。上質な縮緬の絹地の中央に墨画淡彩で雄渾な唐獅子がことさら念入りな筆致で描かれている。獅子の周囲を丸く囲むように描かれた華麗な色彩の牡丹は弟子の筆と考えられているが、応為ではないかとする説が有力である。父娘合作とも考え得るボストン美術館の《唐獅子図》袱紗は、先に紹介した小山田家本《日新除魔》をはるかに凌駕する殊更念入りな筆致と用いられた高価な画材から、しかるべき有力者の求めによるものと推測される。

旧本所亀沢町榛馬場附近.jpeg
旧本所亀沢町榿馬場界隈(現墨田区両国四丁目付近)

 《日新除魔》を描き始めた天保13年当時の北斎は、本所亀沢町の榿(はんのき)馬場附近に住んでいた。JR両国駅東口近くにある榛(はんのき)稲荷神社は、この馬場に祭られていた社で、北斎宅は神社裏手の現在東京東信用金庫が建つあたりと考えられる。有名な逸話だが、北斎は掃除を嫌い、狭い室内には食べ物の包装紙などゴミの類が山のように積まれていたという。北斎門人の一人、露木為一による《北斎仮託之図》(国立国会図書館蔵)はこの頃の北斎父娘を描いたもので、長煙管を手にし、父の画く姿を振り返るようにして眺めている応為の左奥には、例のゴミの山がうずたかく描かれている。すみだ北斎美術館内に再現された北斎アトリエはこの絵をもとにしたものである。このようなゴミ屋敷から幾多の名作が生まれたという事実には、いささか複雑な想いを感じる。北斎とその娘応為の芸術は、泥中から出でて気高く咲く美しい蓮の花のようなものであろうか。

露木為一「北斎仮宅之図」.jpg
露木為一《北斎仮宅之図》(国立国会図書館蔵)

 嘉永2年(1849)に北斎が亡くなり暫くすると、応為は実弟の加瀬崎十郎を頼ったと見られる。﨑十郎は御家人の加瀬家を継ぎ、本郷弓町に屋敷を構えていた。男勝りの応為は崎十郎の妻と気が合わず不仲であったという。北斎の孫によれば応為は、安政4年(1857)作品の注文を受けて東海道戸塚宿に出かけた後消息を絶ったという。また北斎と交流のあった演劇研究家の関根只誠の証言によれば、加賀の前田公が老齢の応為を憐み金沢に迎え彼の地で亡くなったというが、確たることは分からない。



※葛飾北斎《日新除魔》、一勇斎国芳《源頼光公館土蜘作妖怪図》、露木為一《北斎仮宅之図》の画像は「国立国会図書館デジタルコレクション」より転載させていただきました。謝して御礼申し上げます。




【主な浮世絵専門美術館と浮世絵コレクション】


太田記念美術館
東京都渋谷区神宮前1-10-10
電話03-5777-8600(ハローダイヤル)

すみだ北斎美術館
東京都墨田区亀沢2-7-2
電話 03-6658-8931

河鍋暁斎記念美術館
埼玉県蕨市南町4-36-4
電話 048-441-9780

菱川師宣記念館
千葉県安房郡鋸南町吉浜516
電話 0470-55-4061

鎌倉国宝館(氏家浮世絵コレクション)
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-1
電話 0467-22-0753

日本浮世絵博物館
長野県松本市大字島立字新切2206-1
電話 0263-47-4440

北斎館
長野県上高井郡小布施町大字小布施485
電話 026-247-5206

静岡市東海道広重美術館
静岡県静岡市清水区由比297-1
電話 054-375-4454

島根県立美術館(永田生慈氏浮世絵コレクション※)
島根県松江市袖師町1-5
電話 0852-55-4700
※2019年3月頃公開予定。

※詳しい情報は各館へお問い合わせ下さい。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://bijutsu-shumi.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/2306

コメントを投稿

※いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前に
このブログのオーナーの承認が必要になることがあります。
承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらくお待ちください。

※お問い合せについては、「お問い合せ」からアクセスしてください。
こちらのコメント欄には個人情報に関する内容は記載しないでください。

プロフィール

共同印刷株式会社SP&ソリューションセンター アート&カルチャー部では、日本画を中心とした複製画や版画の制作、販売をてがけています。制作の裏側や、美術に関係したエッセーを続々とアップしていきます。尚、このサイトの著作権は共同印刷株式会社又は依頼した執筆者に帰属します。

<   September 2018   >
SUN MON TUE WED THU FRI SAT
 
 
 
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
 
ページの先頭に戻る