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January 19, 2018

永井荷風と木村伊兵衛 -二人の芸術家の邂逅-


 来年生誕140年、没後60年の記念イヤーを迎える作家永井荷風(1879~1959)だが、著作は勿論のこと、その生き方も多くのファンを惹きつけてやまない。
 荷風像として、「黒縁の丸メガネをかけ、六尺豊かの長身を中折れ帽と三つ揃いのスーツに包み、手には雨傘と小さな手鞄を持っている」姿が定着しているが、こうしたイメージが書籍などに掲載された写真から形作られたであろうことは言うまでもない。恐らく荷風像の原型とも言うべき一連の写真が戦前・戦後を通じて活躍した写真家・木村伊兵衛(1901~1974)によって撮影されたものであることは、意外に知られていないのではないか。


 木村伊兵衛をご存じない方のためにその略歴をご紹介しよう。
 明治34年(1901)東京下谷で製紐業を営む家の長男として生まれ、大正13年(1924)開業した写真館が写真家としてのスタート地点となる。花王石鹸長瀬商会の広告部嘱託を経て、昭和8年(1933)名取洋之助らと日本工房を設立。長谷川如是閑、横光利一ら著名作家の肖像写真による写真展を開き一躍注目を集める存在となった。
 ポートレートやスナップ写真を得意とし「ライカの神様」として広く知られる。昭和15年(1940)日本画壇を代表する四人の巨匠(横山大観、上村松園、鏑木清方、川合玉堂)のポートレートによる英文写真集『Four Japanese Painters』を刊行。戦後は昭和25年(1950)に設立された日本写真家協会(JPS)の初代会長に就任(~昭和32年)し、昭和31年(1956)には写真家として初めて芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど写真界の重鎮として存在感を示し、昭和43年(1968)紫綬褒章を受章した。
 没後の昭和50年(1975)、日本写真界の発展に絶大な貢献をなした伊兵衛を顕彰した「木村伊兵衛写真賞」が朝日新聞社により創設され、我が国写真界で最も権威ある賞として現在に至る。平成16年(2004)には東京国立近代美術館で「木村伊兵衛展」が開催された。


葛羅之井古碑と傍らの榎_BW.jpg
荷風が再発見した葛羅之井古碑と傍らに立つ老榎(船橋市西船)
「・・・何となく大田南畝の筆らしく思われたので、傍の溜り水にハンケチを濡し、石の面に選挙侯補者の広告や何かの幾枚となく貼ってあるのを洗い落して見ると、案の定、蜀山人の筆で葛羅の井戸のいわれがしるされていた。」(永井荷風『葛飾土産』より)


 さて、荷風は昭和29年1月に芸術院会員に選出されているが、木村伊兵衛はこの年の5月19日、中央公論社の依頼で荷風の日常生活に密着した撮影を行った。伊兵衛の写真はまず同年の『中央公論』7月号に「ある日の荷風先生」として掲載され、その後昭和40年(1965)には装幀家・佐々木桔梗(1922~2007)により伊兵衛の写真(オリジナルプリント)と荷風の文とを組み合わせた豪華本『葛飾土産より』が出版された。(コレクションサフィール第10輯、プレス・ビブリアマーヌ刊、限定199部)

 荷風の日記、『断腸亭日乗』には次のよう記されている。

 「五月十九日。隂。小山氏来話。午後島中高梨両氏写真師を伴ひ来話。錦糸堀新井工場に相磯氏を訪ふ。今戸橋及び雷門を歩み永田町八百善に至り晩餐の馳走になる。家に帰る正に十二時なり。」

 「小山氏」は荷風研究家で随筆家としても知られた小門勝二、「島中、高梨両氏」は中央公論社社長の嶋中鵬二、同社専務の高梨茂。「相磯氏」は戦前からの友人で晩年の荷風を支えた実業家・相磯凌霜を指す。


 中央公論社の嶋中社長、高梨専務が伴った「写真師」が木村伊兵衛である。芸術家のポートレート写真で著名な写真界の重鎮伊兵衛を起用したのは、気難しい老大家への気遣いでもあったろう。戦前から幾人もの著名な小説家を撮影した実績のある伊兵衛は、当時日本写真家協会会長の重責を担う存在でもあった。
 荷風は戦前、二眼レフの名機ローライを所有(購入したのは代表作『濹東綺譚』脱稿の翌日)し撮影から現像まで行っており、昭和13年(1938)には自身が撮影した写真24枚をカットに用いた小説随筆集『おもかげ』(岩波書店)を出版している。また伊兵衛は、戦前外務省の依頼で歌舞伎の舞台撮影も行い『六代目尾上菊五郎舞台写真集』などを刊行しているが、荷風も青年時代に歌舞伎座の立作者福地桜痴に入門し作者見習いとして拍子木を打った経験があり、親友だった二代目市川左團次(松莚)をはじめ歌舞伎界に知己が少なくなかった。こうした背景から荷風が伊兵衛をまるで知らなかったとは考えにくいが、日記には「写真師」とそっけなく切り捨てるように書き残しているところがいかにも荷風らしい。


真間川に掛る柳橋_BW.jpg
真間川にかかる「柳橋」(市川市二俣~船橋市本中山附近)
「・・・然るにわたくしは突然セメントで築き上げた、しかも欄干さえついているものに行き会ったので、驚いて見れば「やなぎばし」としてあった。」(永井荷風『葛飾土産』より)


 当時荷風は市川市の菅野に住んでいた。荷風の日常に密着取材し、昭和25年に中央公論社から出版された随筆『葛飾土産』の舞台となった市川・船橋周辺や当時荷風が日参していた浅草周辺でロケを行っている。この時伊兵衛が撮影した荷風の姿は冒頭に記した「荷風像」そのものであり、伊兵衛にとっても代表作のひとつとなった。当時、伊兵衛の助手を務めていた写真家・田沼武能の述懐によると、いつもは2、3本で撮り終える伊兵衛が荷風には5本のフィルムを使ったという。これらの写真は現在まで荷風を扱った様々な出版物に掲載されているが、中でも浅草仲見世の雑踏に佇む荷風を撮影した作品が恐らく最も有名ではないだろうか。背景に写る看板や軒先の提灯(洋傘の専門店モリタ、フジヤなど)と人々の歩む方向から考えると、荷風は仲見世通りと新仲見世通りの交差点の真ん中に立っているらしい。荷風の背中側が雷門方向であるが雷門の姿はない。幕末に火災で焼失して以来雷門は100年近く再建されずその時々に架設の門が設けられたと言い、この当時現在のような雷門は存在しなかった。今の雷門は昭和35年(1960)、松下幸之助の寄進により建設された。


 この写真に対する評価は様々あると思うが、私には晩年の荷風の孤独感が映し出されているように感じる。にぎやかな雑踏に溶け込むことなく一人佇立する老大家。荷風は山の手の富裕な家庭に育ち、江戸以来の庶民の文化や生活に憧れをいだきつつも、けっして馴染むことができなかった。長年住み慣れた麻布の偏奇館から戦災で焼け出され、戦後は田園風景が残る市川に隠棲した。親しかった従弟の杵屋五叟一家や荷風を敬慕していたフランス文学者小西茂也一家との同居生活は相次いで破綻し、69歳にして再び一人生きることを選択したのが昭和23年(1948)、6年前のこと。名人伊兵衛は、荷風の心の内に潜む悲劇性をレンズを通して先鋭に描き出している。


夕闇迫る妙行寺の塔_BW.jpg
夕闇迫る妙行寺の塔(市川市原木)
「流の幅は大分ひろく、田舟の朽ちたまま浮んでいるのも二、三艘に及んでいる。一際こんもりと生茂った林の間から寺の大きな屋根と納骨堂らしい二層の塔が聳えている。」(永井荷風『葛飾土産』より)

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