November 17, 2017

秋の散歩。~都会の真ん中「新宿御苑」より~


 秋も深まり、太陽の日差しがないと一段と寒さが増す今日この頃、年末へ向けて日々の生活も身が引き締まる思いです。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 さて、私はこの週末、都会のオアシス「新宿御苑」を散策してきました。「新宿御苑」が誕生したのは明治39年(1906年)のこと。当初は皇室の庭園として造られましたが、戦後の環境庁発足に伴い一般開放されました。日本初の近代西洋式庭園として以後の庭園造成に大きな影響を与えた、由緒ある国立公園です。

 当日はあいにくの空模様で小雨がぱらついていましたが、ツワブキの花壇から漂う香りが私を出迎えてくれました。

①香るツワブキの花.jpg
香るツワブキの花


 続きまして、日本庭園エリア内の写真です。奥に見える旧御涼亭(きゅうごりょうてい)。水辺からの景色や涼しさ、休憩を楽しむことのできるこの建物は、昭和天皇が皇太子であられたときに、そのご成婚記念に台湾在中の日本人が贈ったものだそうで、中国建築の風貌が不思議と落ち着いた印象を与えてくれます。

②日本庭園.jpg
日本庭園


 予想どおり葉は色づき、赤や黄色の美しい紅葉の壮大なこと。広大な敷地と、迫力の樹齢に圧倒されることもしばしば。

③赤い紅葉.jpg
赤い紅葉


④大きなイチョウの木.jpg
大きなイチョウの木


 フランス式整形庭園というエリアでは、左右対称のプラタナス並木が色づき、ベンチの佇まいなど、まるで外国を散歩しているかのような景色が広がっていました。「新宿御苑」という大きな公園の中で、様々な表情を見せてくれます。

⑤フランス式整形庭園.jpg
フランス式整形庭園


 その傍には「バラ花壇」がありました。バラは一年中咲いているとは聞いたことがありますが、様々な品種が豊富に彩り、元気に花を咲かせていました。

⑥ピンクのバラ.jpg
ピンクのバラ


⑦黄色いバラ.jpg
黄色いバラ


⑧白いバラ.jpg
白いバラ


⑨濃赤のバラ.jpg
濃赤のバラ


 そろそろ歩き疲れて帰路につこうと思ったら、遠くで何やら賑わっている人だかりが。近づいてみると、なんと桜の花が開花していました。ジュウガツザクラ=十月桜という名のとおり、この季節に開花する桜でした。道行く人々はほぼ全員、写真に収めていました。やはり日本人は桜が好きなんですね。

⑩ジュウガツザクラ.jpg
ジュウガツザクラ


 以上のとおり、見どころ満載の「新宿御苑」。園内をあでやかに彩る紅葉はまだまだこれから美しくなりそうな気配ですし、冬にはまた新しい季節の花々が咲くそうです。
 都会の喧騒を離れずとも身近にある広大なこの公園を、皆さんもぜひ楽しんでみてください。




【新宿御苑】

開園時間 9:00~16:00(16:30閉園)
休 園 日 毎週月曜日(月曜日が休日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日~1月3日)
特別開園期間(期間中無休)
     春:3月25日~4月24日
     秋:11月1日~15日
入 園 料 一般200円/小・中学生50円/幼児無料
アクセス他、その他詳細は公式HPをご参照ください。


November 10, 2017

浅井忠と明治美術学校


 朝晩めっきり冷え込むようになってまいりました。小石川後楽園の紅葉は例年11月中旬からが見ごろ、そろそろですね。
 さて今回は、今年没後110年を迎えた日本洋画の開拓者、浅井忠(1856~1907)と、かつて小石川にあり浅井が関わった明治美術学校について記します。

 浅井忠、幼名忠之丞は、1856年(安政3年)江戸木挽町の佐倉藩中屋敷に佐倉藩重臣伊織常明の長男として誕生しました。父の死によりわずか7歳にして家督を相続し、佐倉に移住します。

佐倉城址の子規句碑.jpg
佐倉城址には浅井忠の友人、正岡子規の句碑がありました。
「常盤木や冬されまさる城の跡」



 10年を佐倉で過ごした後再び上京し、1876年(明治9年)、20歳にして国沢新九郎の画塾彰技堂で初めて洋画を学びました。同年工部省により開校されたばかりの工部美術学校に入学し、バルビゾン派の流れを汲むイタリア人画家アントニオ・フォンタネージの指導を受けました。しかし敬愛するフォンタネージはわずか2年後の明治11年に辞任・帰国してしまい、後任の教授に不満を抱いた浅井や小山正太郎、松岡寿ら多くの学生は自主退学を選び、十一会を結成しました。その影響もあってか、工部大学校は5年後に閉鎖されます。

 その後1887年(明治20年)、文部省により東京美術学校(東京藝術大学の前身)が開校されますが、設置された学科は日本画、木彫、彫金のみで洋画は意図的に排除されました。反発した浅井ら洋画家は、1889年(明治22年)明治美術会を設立し独自に洋画の普及、発展を目指します。明治美術学校(当初は「明治美術会教場」)は同会が設けた洋画教育機関です。

 1890年(明治23年)頃は京橋区内にあり、翌1891年(明治24年)の春上野公園内の華族会館に事務所を構えた明治美術会ですが、財政難から同年本郷龍岡町に移転、更に翌1892年(明治25年)に小石川伝通院の裏手にあった「鼠色に塗られた木造の洋館」へ移ります。移転先の「小石川表町109番地(文京区小石川3丁目)」は、元陸軍省用地の荒地を切り開いて新たに道を通した場所で、現在「舞姫通り」と呼ばれている小路沿いの住宅街一帯にあたります。明治美術会事務所があった正確な位置は、残念ながら分かりませんでした。浅井は当時自宅のあった下谷根岸から、馬で通っていたそうです。(余談ですが、舞姫通りの北西側の端からさらに200メートルほど進むと当社裏門に至ります。)

小石川伝通院界隈.jpg
小石川伝通院界隈


舞姫通り.jpg
舞姫通り 通りの両端にバレエやダンスのスクールがあります。


 小石川移転2年後の1894年(明治27年)、明治美術会はアトリエ機能の強化などを目的に建物を改築し、これまでの教場を明治美術学校と改称しました。設計は東京駅設計者として広く知られる帝大教授の辰野金吾。辰野はまた明治美術学校の校長に就任します。浅井は風景画の主任を務めました。弟子の石井柏亭によると当時の小石川は「家がまだまばらで画になる材料があった」ので、「時には教場の近くで風景写生をする生徒達を浅井が批評したり」する姿が見られたそうです。近隣で生まれ育った小説家永井荷風は、少年時代にそうした浅井を目撃していたのでしょう。小石川について記した随筆のなかで浅井に触れています。

 その後の明治美術会ですが、1896年(明治29年)、黒田清輝、久米桂一郎、岩村透ら海外留学組を中心とするメンバーが退会し白馬会を創設、また同時期に東京美術学校に洋画科が新設され、黒田、久米が教授に就任しました。白馬会は「新派」あるいは「外光派」、明治美術会が「旧派」あるいは「脂(やに)派」と呼ばれる風潮となり、浅井ら明治美術会には逆風が吹きます。翌1897年(明治30年)明治美術学校は閉鎖され、その4年後明治美術会も解散しました。

 浅井は明治美術学校閉鎖後、下谷上根岸町の自宅(現在の鶯谷駅前、元三島神社附近)に家塾「根岸倶楽部」を置き、後身の指導育成にあたりました。1898年(明治31年)の東京美術学校騒動後、ようやく美術学校洋画科に白馬会以外の教授を置くこととなり、明治美術会に推されて浅井が教授に就任します。翌年、パリ万博の鑑査官としてまた文部省の命による留学のためフランスへ渡り1902年(明治35年)まで2年余り滞在します。バルビゾンにほど近いグレー村を気に入り、油絵のほか多くの水彩画を制作しました。
 東京の美術界に嫌気がさした浅井は、帰国後京都に転居し京都高等工芸学校教授に就任。翌1903年(明治36年)には聖護院洋画研究所、後の関西美術院を設立し、後身の育成に注力しました。巨匠、梅原龍三郎や安井曾太郎はここで直接浅井の指導を受けた生徒のひとりです。また向井潤吉は、浅井の没後ですが関西美術院で洋画の基礎を学びました。

 文豪夏目漱石と浅井は、共通の友人正岡子規の紹介で知り合ったと思われますが、浅井が漱石の処女小説『吾輩は猫である』の挿画を描くなど深い親交がありました。浅井が1907年(明治40年)に亡くなり、翌年明治美術会の後身たる太平洋画会の第6回展で回顧展が併催されると、漱石は小説『三四郎』のなかで「深見画伯」の遺作展に仮託し、この浅井の回顧展を描きました。亡き友に寄せた漱石の想いが伝わってきます。

 浅井忠は、51年の生涯を通し洋画を志す若者たちの育成に力を注ぎ、近代洋画壇の礎を築きました。また小石川の地が、彼の活動を支える一端を担いました。最後に、『三四郎』のなかから、浅井の作品について語った言葉をご紹介します。画家原口(黒田清輝がモデルと言われます)が美彌子と三四郎に語った言葉です。

 「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」




【参考】 明治美術会略史 (石井柏亭『浅井忠 画集及評伝』他をもとに編纂)


1889年 明治22年
2月下旬、本多錦吉郎、小山正太郎、柳源吉、浅井忠、松岡寿、松井昇、長沼守敬らの発意協議により明治美術会の仮規則草案作成される。
4月9日、相談会開催され山本芳翠、渡辺文三郎、佐々木三六ら賛同。当日出席できなかった曽山幸彦、川村清雄も賛同。
4月19日、第三回美術家親睦会(根岸「伊香保」にて)でより広い範囲に会則が示されるが依存なし。
5月、明治美術会創立される。会頭に渡辺洪基(帝大総長)就任。春秋2季に展覧会開催を定める。展覧会のための学術委員15名、事務委員20名を互選。浅井は双方に選ばれたが学術委員は辞退。第一回展の会場は上野不忍池畔にあった共同競馬会社の馬見所、会期は10月20日から29日に決定。(開会後11月3日まで延長、11月4日には明治天皇の皇后、昭憲皇太后が行啓)浅井は「馬蹄香」、「春畝」(東京国立博物館)、「山驛」の3点を出品。
12月、明治美術会第1回大会開催。


1890年 明治23年
この頃、京橋区内に事務所を構えていた。(明治23年4月付有志者親睦会案内書面、同年10月11日付月例会案内書面)
4~7月、第3回内国勧業博覧会を上野で開催。明治美術会は春季展を見合わせ内国勧業博覧会に出品を決定。浅井、小山、松井、川村らは出品せず。明治美術会から小山、松岡、長沼らが油画の審査官に加わる。
4月27日、明治美術会第2回大会開催され文学博士外山正一が講演し物議をかもす。
9月3日、華族会館が鹿鳴館に移転。跡地は学習院分校となる。
9月、渡辺会頭が特命全権公使に任ぜられ、田中不二麿が新たな会頭に就任。
11月、第二回明治美術会展覧会開催(上野公園旧華族会館)され、皇后(昭憲皇太后)、皇太后(公明天皇の女御、英照皇太后)、皇太子(大正天皇)行啓。浅井は「漁村」二図、「漁磯」、「収穫」(東京藝術大学蔵)の4点出品。


1891年 明治24年
明治美術会、4月より旧華族会館を永続的使用することとなる。旧華族会館に事務所を置き展覧会や月次会を行い7月から常設の陳列館を開く。
11月、地代による負債が嵩み、旧華族会館の事務所を閉鎖、本郷龍岡町へ移転。


1892年 明治25年
1月、明治美術会事務所に仮教場(絵画科、三学年)を開設。教授内容は、一学年~二学年前期は幾何画法と鉛筆、チョークによる臨画、二学年後期から三学年にかけては素描と着色の写生、透視画法(当時は「照鏡画法」と呼んだ)と解剖。彫刻科も計画されたが実現に至らず。絵画科教授は浅井のほか本多錦吉郎、加地為也、柳源吉、松井昇、松岡寿、平瀬作五郎(幾何学画法、透視画法)の計7名。
同月、明治美術会月次会開催され、本多が提議の「裸体画ノ絵画彫刻ハ本邦ノ風俗ニ害アリヤ否ヤ」を討議。浅井は時期尚早論を展開。
3~5月、第4回明治美術会展が芝公園弥生館にて開催される。浅井は水彩画1枚を出品するのみ。この頃浅井は、従兄弟の窪田洋平が計画した神田の「パノラマ」(「忠臣蔵」のジオラマと「富士」のパノラマ/明治23年暮れから製作開始し24年4月に開館、25年4月の神田大火で焼失)製作に時間を費やしていたため出品画が少ないとされる。浅井ら明治美術会の主だった画家が製作に従事した。
5月11日から6月30日まで第3回明治美術会展覧会開催。浅井は出品せず。また秋季展は開催されず。
6月、会事務所・教場を小石川表町109番地(伝通院裏の元陸軍省用地)にあった「鼠色」の木造洋館に移転。北畠大学建設用地となっていたところを建物ごと会が入手。浅井は根岸の自宅からよく馬で教場を訪れた。


1893年 明治26年
明治美術会、米国コロンブス世界博覧会への出品を取りやめる。
4月、第5回明治美術会展覧会開催(上野公園元博覧会5号館)。田中会頭が辞任し花房義質が就任。


1894年 明治27年
明治美術会事務所を改築(設計辰野金吾)。教場を明治美術学校と改称し、辰野金吾(建築家、帝大教授)を校長とする。(「辰野の設計によって北窓を改造したりしたのでそれは漸くアトリエらしいものになつた。廣い室の一つが人物寫生に充てられ、より小さいのが石膏寫生や臨模に充てられ、尚其外に事務室會議室もあつた。」石井柏亭『浅井忠 画集及評伝』より)浅井は風景の主任、松岡が人物の主任で、松井や本多はあまり実技指導を行わなかった。表町周辺はまだ家がまばらで画になる材料があり、教場の近くで浅井指導による風景写生が行われた。
夏、日清戦争勃発し浅井、時事新報の通信員の名目で従軍画家として戦地に赴く。
11月11日から末日まで第6回明治美術会展覧会開催される。浅井は出品せず。この年帰国した黒田清輝、「朝粧」を初めて出品。


1895年 明治28年
4~7月、京都で第4回内国勧業博覧会開催され黒田清輝「朝粧」を出品し物議をかもす。浅井は「旅順戦後の捜索」(東京国立博物館)を出品、二等妙技賞受賞。
10、11月明治美術会秋季展開催。浅井、「旅順戦後の捜索」、「樋口大尉小児を扶くる図」(油画)ほかに水彩画9点を出品。
浅井、明治29年頃まで教科書出版に注力。(金港堂『中学画手本』、吉川書店 中等教育『彩画初歩』、金港堂『新按小学画手本』など)


1896年 明治29年
6月、黒田清輝、久米桂一郎、岩村透ら明治美術会を退会し白馬会を創設。
東京美術学校に洋画科新設され黒田、久米講師となる。この頃から白馬会を新派、明治美術会を旧派と呼ぶ風潮興る。
明治美術会秋季展開催されず。
7月、浅井、元三島神社前の下谷上根岸町38番地に転居。


1897年 明治30年
4~5月明治美術会展覧会開催。浅井「漁婦」、「海上の春雨」、「房州根本村の景」2図、計4点出品。
明治美術学校閉鎖。浅井、自宅隣に家塾「根岸倶楽部(後の同友会研究所)」を置き後進を指導。


1898年 明治31年
3月、明治美術会創立10年記念展覧会開催。浅井「冬枯」を出品。
東京美術学校騒動の後、洋画科に白馬会以外の教授を置くことが議論され、明治美術会の推薦で浅井が教授となる。


1899年 明治32年
浅井、内閣よりパリ万博鑑査官に任命される。また文部省よりフランス留学を命ぜられる。


1900年 明治33年
2月、浅井、渡欧。(~1902年)


1901年 明治34年
11月、明治美術会解散。翌年、吉田博ら後身の太平洋画会結成。

November 1, 2017

東の「運慶」、西の「国宝」展を見る。


いつもブログ≪美術趣味≫をご覧いただき、まことにありがとうございます。

日ごとに寒さが身に染みる季節になってまいりました。つい先日には東京と近畿地方で木枯らし1号も発表されました。冬本番の時節到来です。皆さまも健康には十分お気をつけ下さい。

さて、上野の東京国立博物館ではこの秋注目の展覧会、興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」が開催されております。日本で最も名高い仏師・運慶の主要作品が一堂に会する史上最大の「運慶展」です。現在、運慶作と言われる仏像は全国各地に計31体が残るとされていますが、この展覧会ではその内のなんと22体が展示されております。

私は週末の夜に鑑賞しましたが、大盛況の噂に違わず、待ち時間はなかったものの館内は人で溢れかえっていて、皆さん実に熱心に鑑賞されておりました。

国宝の「大日如来坐像」(円城寺)、「八大童子立像(うち6体)」(金剛峯寺)、「毘沙門天立像」(願成就院)、「無著(むじゃく)菩薩立像」・「世親菩薩立像」(ともに興福寺)に、「毘沙門天立像」(浄楽寺)、「聖観音菩薩立像」(瀧山寺)など、壮観な展示内容はまさに見応え十分と言えるものです。

展示の解説パネルには仏像の玉眼(水晶を入れた目)の輝きや袈裟の襞の表現から、制作の時代背景まで鑑賞のポイントが簡潔に記されており、仏像ビギナーの私でも日本彫刻の真髄をたっぷりと堪能することが出来ました。


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【展覧会情報】
興福寺中金堂再建記念特別展「運慶」
会場 東京国立博物館平成館
会期 11月26日(日)まで ※月曜休館
時間 9:30~17:00 (金曜・土曜および11月2日は午後9時まで)




そして一方、西の京都国立博物館では京都国立博物館開館120周年記念として特別展覧会「国宝」が開催されております。本年は京博と国宝ともに120周年を迎える節目の年にあたり、昭和51年の「日本国宝展」以来の実に41年ぶりとなる貴重な展覧会です。

国宝に指定された美術工芸品885点のうち約200件もの国宝が京都の地に集められ、4期に分けて展示されます。

私も東京から勇んで駆け付けましたが、一堂に集められた貴重な展示物の数々に圧倒されました。丁度伺った時には雪舟の全6件の国宝が一室に展示されており、まさに二度とない機会を満喫いたしました。関西に在住であれば会期中何度も訪れたいと思わせる夢ような展覧会でした。



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【展覧会情報】
「京都国立博物館開館120周年記念 特別展覧会 国宝」
会場 京都国立博物館
会期 11月26日(日)まで ※月曜休館
時間 9:30~18:00 (金曜・土曜は午後8時まで)


深まる秋のこの季節、深遠なる伝統美の世界に旅してみてはいかがでしょうか。空前絶後の東西二大展覧会に、皆さまもぜひ足をお運び下さい。




プロフィール

共同印刷株式会社SP&ソリューションセンター アート&カルチャー部では、日本画を中心とした複製画や版画の制作、販売をてがけています。制作の裏側や、美術に関係したエッセーを続々とアップしていきます。尚、このサイトの著作権は共同印刷株式会社又は依頼した執筆者に帰属します。

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